「発展と幸せの相関関係」なぜ技術が発展したのに私たちは幸せになれないのか?
私達の生活は、格段に豊か、便利になった。
100年、50年前、現在と比べてみれば、人々が生きる為にしなければならない事は、相当減っただろう。
テクノロジーの進歩について、私は専門家では全く無いが、ここ数十年のそれは目覚しい。
では、今の人間は、それに比例して幸せになったのだろうか。
ここでは、働く世代に焦点を当てる。なぜなら、生きる為に現代で必要なお金を稼ぐ存在だからだ。養って貰っている人が、幸せかどうかは、また別の議論とする。
あくまで推測だが、働く世代10万人に、「あなたの人生、仕事を含めて幸せですか?」とインタビューしたら、「仕事は忙しいし、給料もイマイチ、人間関係も良くない様に思える」
このような回答が多いと思う。(一度やってみたいと思うのだが、おそらく怪しまれてあまり答えて貰えないだろう)
なぜ、豊かになって人間がやらないといけない事が減ったはずなのに、幸せを感じにくいのだろう。
本当は幸せなのに、単に満足していないからなのだろうか?
そうではない、と私は思う。
本当に働く人々は、厳しい労働環境に居続けている場合が多いと思う。
その原因として考えられるのは、「昔からお金を得るプロセスが変わっていない事」にあると私は考えている。
どれだけテクノロジーが進歩しても、それが全ての働く人々に還元されていないのだ。
機械、人工知能が発展すれば、生産にかかるコストが、人間を雇うよりも安くなる。そうすれば、得をするのは、実際にお金を払う側の雇い主、経営者。
人間よりも正確に、文句も言わず、教育する必要のない生産主体を作るだろう。
でも、それでは労働者はどうやって生きればいいのだろうか。
お金を得る為には、働かなければいけないなら、仕事を残す活動をする。
雇用を守るというやつだ。
こうして、仕事を作るための仕事をしてしまうことになる。
これでは、せっかくのテクノロジーの発展が、何のためにあるのか分からない。
なるべく原価よりも高く売る、お金を生み出して儲ける。
こうしたシステムを続けていれば、本当は売る必要もないものを作り、貴重な環境資源を無駄にしているようにも思える。
他にも、「辛い労働をする事が美徳。限界まで働く事が素晴らしい」という思い込みが抜けないことにある。
昔は、確かに生きるためには朝から晩まで人々が働いて行かなければ、食べていけなかった。生産性が低いから。
それをこなすためには、自分たちを奮い立たせる「美徳」としてこうした思い込みも必要だったのだろう。
けれど、どんどん生きるために必要な労働にかかる時間、労力は減っていった。
なので、今までの歪んだ美徳は、もう必要なくなったのだ。
やらなくていいことはやらないで余暇をゆっくりしたり、遊んだ方が幸せに感じられるだろう。
それなのに、私たちは労働してお金を得るという手段しかいまだ存在しない。
社会の生産性が向上して、労働が必要となくなっても、あくまで労働をして賃金を得るという生き方しか選択できない。
こうした構造をずっと続けていて、本当に私たちは豊かになれるのだろうか?
今後、どんどん人間の労働が必要なくなっていって、一体どうなってしまうのだろうか。
単純労働しかできない人々は、食べていけるのだろうか?
お金を稼ぐという手段以外で、テクノロジーの発展を享受できるシステムが必要であると思う。
「私たちは発展するためにこの世の中に来たのではありません。幸せになるためにやって来たのです」
ホセ・ムヒカ大統領の言葉の本質は、こうした構造の問題についての洞察にあるのかもしれません。
私は、こうした賃金労働等社会について専門的な勉強をした事がありません。
ですので、皆さんの、これからのテクノロジーの発展を生かす生き方、構造についての意見をお待ちしています。