自分にとっての幸せを明確にする
人はなぜ生きるのか。
そう一度も考えたことがない人は稀だろう。
確か17歳くらいだったと思う。高校に通う電車で、ふとこんな事を考えた。
家庭はこんなに不安定で、将来も上手く描けない。きっと大人になったら仕事とか辛いんだろうな。仮にいい大学に行くとか、いい会社に入るとかしてと、いつか死んでしまうのに、なぜ生きるのだろうか?
その時は、良くわからなかった。
ただ、漠然と憂鬱で、生きることに対して、真剣になれなかった。
哲学病とでも言おうか、そうした思いが、強かった。
それから10年経ち、いろんなことを経験して自分なりに答えが出てきた。
確かに、人は必ず死ぬ。例えば、今日外に出て誰かに刺されれば死ぬし、不治の病にかかれば、少し早く死ぬ。
けれど、私も含めて大抵の人は、そうした死の危険を回避する。あえて事件に巻き込まれて時には命を落とす国に旅行には行かないだろう。
そうしたことがなければ、恐らくある程度長生きして、もう自分の頭では色んな事を考えられなくなってしまっているし、身体も満足に動かないだろう。
90歳、100歳になることが、素晴らしいとは私は思えないし、なりたくもない。
人に迷惑をかけていることすら分からない自分になってしまうのが嫌だし、こわい。
今の仕事は生活もきちんと出来るし、いいところもあるけれど、やはり心の底からやりたいとは思わないし、職場の付き合いで人間性に問題があるような人に飲み会へ連れて行かれると、その時間はとてもつらい。
では、今すぐ死ぬべきなのか?
死んでしまえば、おそらくこうした悩みを持つ必要もないし、そう考えると今の苦しみはなんの意味もないように思える。
しかし、そう簡単には、死ねない。
テレビゲームのように、人生のリセットボタンなんてものはないのだ。
動物には、生きるという本能が備わっているのだろう。人間以外で、自殺する生き物はいない。
それに、仮に自分の大好きなことで生きられるような人生になるとしたら、死ぬ人なんていない。
なので、よほどの覚悟がないと、人生を降りられない。
人生というものは、何かを問われていると感じることがある。
人には、一人一人違った人生が与えられる。そこで、自分なりに何かを成し遂げるべき何かがあるんだと思う。
もちろん、こうした考えにはなんの根拠もない。実際には単に運で、貧乏に生まれたり、裕福に生まれたり、容姿が優れてたり、劣ってたり、するのかもしれない。
それでも、人生からは逃げられない。逃げれば逃げるほど、生きづらくなる。何もしなければ、生きていけないように今の世の中は作られているから。
なので、
人生に意味はないかもしれないが、そう簡単に降りられないから、どうせ生きていかなきゃいけないなら、なるべく生きやすいような努力や工夫をするべき
という考えで最近はまとまっている。
さらに、こうした考えは、人生を良くすることにつながる。
例えば、嫌な人が会社にいて、その人から飲み会やらやたらと話しかけられたりするとする。そこで、自分の思いを伝えず、なんとなくハイハイとしてしまうのが、年次が下の社会人だ。
けれど、どうせ人間死ぬし、本音を言わない方が損じゃないかと分かれば、かなり本音を言えるようになる。
そうすると、よほどのバカでなければ、相手も察して近づいてこないだろう。
死を理解することは、実は生きやすくなることでもあるのだ。
話がだいぶ逸れたが、本題に入る。
人は、皆幸せになりたいと思って生きる。
死にたいと言うのは、今幸せじゃないからであって、幸せになれば大抵の人は死なない。
しかし、人にとっての幸せは、実はかなり人によって違う。
なので、自分にとっての幸せを明確にしないと、本当は幸せになれるのに、それが分からないから間違った行動をしているということもある。
例えば、本当は毎月20万円の給料で、休みが2日あり、人と遊びに行くよりも、1人またはパートナーとゆっくりとした時間を過ごすのが幸せな人が、それを理解せずに、毎日忙しく働く職場で、40万円を稼いでいても、幸せにはなれない。
自分の幸せを明確にすれば、自分の人生を不幸にしている事を辞められる。
ミニマリストというのは、自分にとっての必要最低限の暮らしをする、そうした選択をする人のことを言う。
これを少し言い換えると、自分にとっての幸せを明確にして、それ以外のことにつながる行動を止めることでもある。
ミニマリスト=持たない人
なんて単純な言い方ではなく、
幸せを明確にして行動する人
と言う言い方が正しいのではないだろうか。
そんなことを考えた。